大森一樹「風の歌を聴け」

大森一樹「風の歌を聴け」U-NEXT  1981年公開

大学入学直後(1984年5月29日)に文芸座で観ているが、室井滋の有名なベッドシーン(レーゾン・デートル)以外は殆ど覚えてなかったので、U-NEXTで約40年ぶりに鑑賞。正直、忘れてしまうのも無理はないと思える退屈なシーンが大半。そもそも原作が映画向きではないとは言え、「ヒポクラテスたち」や「恋する女たち」の軽快なテンポの会話劇・群像劇の面白さは殆どなく、全編どこか鬱陶しいようなムード。

原作に対する遠慮が感じられる。
契約で原作からの改変が制限されていたのかもしれない。

原作の骨子だけを残して、キャラ設定も変えて、原作に登場しないキャラも登場させて、軽快な群像劇に換えてしまったらどうだっただろう? もしくは、大胆にバッサリ切って、現実と夢の間を漂うような一人称に徹して、20分程度の短編に再編集してみたら?

この時点では無色透明だったのかもしれない主演・小林薫は、その後の作品で色が付いて、感情をしっかり出す演技の方が断然生きる俳優として認識してしまっているので、現在の目で見るとあまりはまっていない。

おそらく意識的に無機質にやっている小林薫の演技の中に、時に少し感情が(無意識に?)漏れてしまっているような台詞がある。演技自体として普通に良い味を出しているその演技は、原作のムードからは浮いている。デレク・ハートフィールドの話が始まりと終わりで軛を打つ原作は、実際の日付を提示しても、非現実感が通奏低音として流れ続けていて、主人公も鼠も小指がない女もジェイも小説の中でこそ生きる話し方をする。その非現実感と小林薫の人間味が漏れる発声は軽く衝突している。例えば、あの頃の高柳良一の「時かけ」のうような棒読み演技だったらどうだっただろう? 余談だが、基本的に標準語を話す小林薫の台詞・モノローグの一部が標準語ではないアクセントなのも結構ひっかかった。

ヒロイン(小指がない女)の真行寺君枝(1959年誕生)は存在自体は充分attractiveだが、なんとなく、イメージとは違うように感じた。直近では「ノルウェイの森」の菊地凛子と水原希子にも感じた、言葉でうまく説明できない違和感。では、誰が演じれば原作のイメージに近いのか、と問われれば、咄嗟には浮かんでこない。小説的観念の中でのみ存在感を発揮する造形なのかもしれない。

大森一樹が彼なりのやり方で全編に非現実感フィルターをかけていたとしても、それは、原作のそれとは当然違う方法論で行われている。大森の映画的方法論と村上の小説的方法論の方向性がそもそも最初から交わり難く別方向を指していた可能性も大。大森一樹と村上春樹はほぼ同時期に兵庫県芦屋市に住んでいたようだが、多分、ふたりの世界の見え方・捉え方は相当異なっている。

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